■マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展■ブロガー特別内覧会から…
猛暑の日々
午前中、吉祥寺でヨガレッスンを受け
銀座のウィンドウショッピングで涼み
閉館後の6時から三菱一号館美術館で行われた
■マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展■
ブロガー特別内覧会へ。
マリアノ・フォルチュニは、服飾デザイナーとしての名声だけでなく
画家、版画家、写真家、舞台装置デザイナーとしても
活躍したマルチ芸術家。
今回の展覧会で、彼の全貌を感じることに…
ジュデッカ島のテキスタイル工場では
今もフォルチュニがデザインした綿プリントが
100年前と同じ工法で製造されていることにも
驚く。

■マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展■
2019年7月6日(土)~10月6日(日)
10:00~18:00(祝日を除く金曜、第2水曜、8月12日~15日、会期最終週平日は21:00まで)
月曜休館(祝日・振替休日の場合、9月30日とトークフリーデーの7月29日、8月26日は開館)
三菱一号館美術館
03-5777-8600(ハローダイヤル)
軽くてしなやかな「デルフォス」(繊細なプリーツを施した絹のドレス)で一躍20世紀初頭の服飾界の寵児となったマリアノ・フォルチュニ(1871-1949)。彼の邸宅兼アトリエを美術館として公開しているフォルチュニ美術館(ヴェネツィア)の全面的な協力のもと、本展では、フォルチュニ芸術の真骨頂である絹地のドレスやコートなどの服飾作品を軸に、絵画、版画、写真、舞台関連作品、彼が蒐集した日本の染め型紙を含むデザイン関連資料等を総合的に展覧します。グラナダで生まれ、ローマとパリで育ち、ヴェネツィアで制作して成功をおさめた彼の生い立ちから多彩な創作活動まで、近年世界的に注目されている総合芸術家・デザイナーの全貌に迫ります。
序章 :マリアノ・フォルチュニ ヴェネツィアの魔術師
第Ⅰ章:絵画からの出発
第Ⅱ章:総合芸術、オペラ
第Ⅲ章:最新の染織と異国の文様
第Ⅳ章:写真の探求
第Ⅴ章:異国、そして日本への関心と染織作品への応用
会場から・・・
自画像 テンペラ、厚紙
フォルトゥニ家コレクションのきものを着たアンリエッタ
1905年(2019年プリント)セルロイド・フィルムからの顔料いんく・プリント
セルフ・ポートレート 1890年頃(2019年プリント)
ゼラチン上乾板ネガからの顔料イング・プリント

《エジプト、ナイル川からみた村と山々》1938年 テンペラ/ カンヴァス
リヒャルト・ワーグナーのオペラ『パルジファル』より クンドリ
制作年不詳 テンペラ/板

ケープ(未完成) 1930年代 絹ベルベットにステンシル・プリント
オペラジャケット 1920年代
ゴースにステンシル、プリント、トンボ玉、飾り紐
神戸ファッション美術館
「キモノ」ジャケット
1925年頃 絹サテンにハンドペイント
神戸ファッション美術館
デルフォス
デルフォス ピンク
ごく細かいプリーツをくるっと巻き、箱に収納できるデザイン
当時の女性のそれまでのコルセット様の服装とは違い身体を自由に開放したデザイン





レオナルド・ダ・ヴィンチ社、ミラノ
1925年 木、金属
フォルチュニが発明した舞台照明と同じ間接照明のシステム
現在も同じ形のランプが製造、販売されている。


1913年(プリント年不詳)
ゼラチン・シルバー・プリント原版からの顔料インク・プリント

右は今回この展覧会の学芸員の阿佐美淑子さんで、この方のレクチュアーが素晴らしく充実の鑑賞となりました。
★マリアノ・フォルチュニ
1871年:スペイン南部のグラナダで生まれる。
1874年:父マリアノ・フォルチュニ・イ・マエサルが36歳で急死。
1875年:母と姉と共に画家である母方の伯父たちの住むパリへ移る。
1881年:オリエンタリスムの画家バンジャマン・コンスタンの弟子となる。
1886年:15歳になるフォルチュニは写真を撮り始める。
1888年:フォルチュニの馬の毛によるアレルギーを心配し、馬車が通らないヴェネツィアに家族で移住。
1896年:第七回ミュンヘン国際美術展において、ワーグナーオペラ『パルジファル』の一場面を描いた《花の乙女たち》が金賞を受賞する。この年デルフィの遺跡で『デルフォイの御者』が発見される。
1899年:ヴェネツィア・ビエンナーレに初めて参加。スペイン室に絵画1点を展示する。
1900年:間接照明のシステムの特許をヴェネツィアで申請する。ミラノのスカラ座でワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の舞台演出を担当する。
1902年:一時的にパリに住むが、後に妻となるアンリエット・ニグランに出会い、共にヴェネツィアで暮らしはじめる。
1907年:アンリエットの発案で『デルフォイの御者』に着想を得た「デルフォス」が開発される。写真家のアルフレッド・スティーグリッツが「デルフォス」を妹に着せて撮影を行う。
1909年:「デルフォス」に使用されるプリーツの特許をパリで申請し、続けてプリントなどに関する特許も申請する。
1912年:ニューヨークで「デルフォス」やベルベットのコートなどが販売され、アメリカ版『ヴォーグ』誌で紹介される。ヴェネツィアの工房で制作した服飾を販売するためロンドンとパリに店舗を開業する。
1914年:第一次世界大戦が勃発。翌年から戦争が集結するまでヴェネツィアの工房、ロンドンとパリの店舗も閉鎖する。
1917年:ヴェネツィアのスペイン国副領事となる。
1919年:前年に第一次世界大戦が終結し、ヴェネツィアのジュデッカ島に綿プリント工場の建設を開始。1921年から稼働。
1922年:ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ社と共同開発してきた舞台装置「クーポラ・フォルチュニ」がスカラ座で使用されワーグナーのオペラが上演される。
1924年:デザイナーでクチュリエのジャンヌ・ランバンと知り合いテキスタイルを提供する。
1928年:ニューヨークのマディソン・アヴェニュー509番地の店舗で「デルフォス」など取り扱いを開始。
1936年:フェリーチェ劇場に「クーポラ・フォルチュニ」を設置。
1939年:第二次世界大戦の勃発とともに、工場の生産が停止。その後数年のうちに職人の解雇を余儀なくされ、パリの店舗も閉店する。
1945年:ジュデッカ島の工場が空襲で大きく被災する。第二次世界大戦終結。
1947年:アメリカの代理店経営者の援助により工場での生産が再開。
1949年:5月2日自邸にて没。
三菱一号館の内装も素晴らしく
今回の展覧会にふさわしい美しさ


内覧会前、まだ明るいうちに中庭を散歩



蒸し暑い夕暮れの中庭、植栽されたポールから噴き出す
ひんやりとした霧に癒されます。

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〒100-0005東京都千代田区丸の内2-6-2
この記事へのコメント
マリアノ・フォルチュニは奥さんのアンリエッタと仲もよく、たくさんの写真や絵画を残しています。また彼女は工房で一緒に働いてもいて、かなりの影響を夫に与えたのだろうと想像しています。
マリアノ・フォリチュニはさまざまなアートに才能を発揮した稀有な人だったようです。
絵画から、写真、舞台芸術、染色の服飾デザインまで、まさに総合芸術家だったのですね。経済的な成功も収められたでしょうし、凄いですね~。イタリアでは有名な方なのだと思います。
ヴェネツィアのジュデッカ島は、去年船の上から眺めました。小さい島ですから全体を一目で見れました。あそこに工房があるんだと、島のことを思い出しました。
私もマリアノ・フォルチュニのことをよく知りませんでしたから、今回の展覧会で多彩な才能の持ち主だったことを感じました。
そして今も当時と同じ技術で製作する工場を維持していることにも驚きました!
クルーズ船から眺められたミクミティさんがとても羨ましいです~☆
多方面に才能を発揮できる事も、凄い事ですね。
ただの凡人には、その方の頭の中は如何な事に?と思ってしまいます。
あまりにも凄すぎて、コメント出来ないと思いながら、書いてま~す、ごめんなさ~い(笑)
私もフォルチュニのことは、よく知らずに…
この展覧会で多方面のアートに造詣も深く
様々なプロジェクトを展開し、成功させたことに驚きました!
三菱一号館美術館とこの展示は素敵な出会いで、
なかでも、やはりデルフォス(細いプリーツのドレス)は
女性を苦しいコルセットから解放したことも凄いです。
一芸に秀でた人は 他のものにも素晴らしい才能を持ってるんだと思うと、すごくうらやましいです。
浮世絵で見ていた日本の文化を実際に見られる様になった明治以降のヨーロッパ人は、僕たちが思っている以上に影響を受けたことが解りました。
着物ジャケットはお羽織の延長線上にありますもんネ。
またパーティーらしきもので着たはるのも 着物が孕む独特の空気感。
日本側から見ると 伝統的な着物も次に進むステップを踏む段階に来てたのかもですが、その時に来たのが第二次世界大戦だったのでしょう。
返す返す残念なことです。
マリアノ・フォルチュニのことは、ファッションに携わっている人でも、誰でもが知っているという方ではないように思います~。
この方の凄いところはファッションだけでなくあらゆるものに対して工夫をし、デザインしてゆくこと。本当に驚きました。
おーちゃんさんのおしゃるように、1900年代初頭の日本ブームは私達が考える以上にヨーロッパではおおきな影響を受け、あらゆる絵画やファッションの中に取り入れられていたんですね~☆
キモノスリーブのドレスも制作していて、着物に魅了されたフォルチュニを強く感じました~☆